January 14, 2011

ああ海外

武者修行、もう少し自信のある人ならば道場破り、になるのでしょうが、海外に留学に行く、というのは血圧の高そうな、鼻息の荒そうな人がするもの、というイメージがあるのではないでしょうか。ただ、実際のところ、少なくとも10年ちょっと前の状況は、武者修行というよりは出稼ぎという感覚が強かったような気がします。修士課程の春に種をまき、博士過程の夏に雑草と格闘し、そしてD3なりD4なりで実りの秋を迎える。はれて博士号取得の収穫祭が来るわけですが、移ろう季節は冬を迎え、耕す畑は無し。やることと言ったら雪下ろしぐらい。ここにいても仕事はネ、稼ぎに出ヨか、といったところでしょうか。出稼ぎ、という言葉に感じる印象は人によってそれぞれなのでしょうが、うら寂しい響きがあるのは否めませんが、都会への憧れ、華やかなるものへの憧れ、というものが、少しは含まれているような気もします。研究を続けたかったら一番の近道は留学だった。そういう時代が長いこと続いていたのだと思います。

しかるに今は、だいぶ道も整備され、国内で働くというのも悪くはないという状況になってきています。ポスドクというポジションが出現し、最先端の機器も海外に引けを取らない、むしろ多くの場合国内の方が充実しているでしょう。実際、国内一本で素晴らしい研究経過を出し続けている中堅・若手の研究者の割合はどんどん増えているかもしれません。海外経験のない人が増えることはあまり好ましくはないと思いますが、それは海外に行かないのが悪いのではなくて、自分の新しい可能性を探そうとしないのが悪い、それ以上でもそれ以下ではないという気がします。どんなに手入れをしていても施肥をしようとも、毎年毎年同じところで同じ野菜を作っていると、同じようにやっているのにトラブルが頻発します。連作障害ですね。同じような生活スタイルでずっといると、ほめられたことではない悪習にももっともらしい理由をつけて、正当化することだけ、上手になりますし。喫煙者がタバコをやめ無い理由を地球を三周するぐらい用意しているのに似ています。また、これは大いに反省すべき事なのだと思いますが、僕自身海外に行こうと思った一つの理由は、海外の成果を引っさげて颯爽とBP1講義室でセミナーをする先輩方が格好良かった、ということです。もし、今の時代に海外に行こうという人が激減した、というのならば、その少し前に海外に出て行った僕らの世代がイマイチ格好良くなかった、ということに尽きるでしょう。

海外に行って良かったことは、海外で生活したことのある自分を知っている、ことです。そうでなければものすごく退屈だったかもしれない人生がある時を境に突然動き出す、そういった機会というのは普通では滅多に訪れるものではありませんが、生活環境をガラリと変えると、意外と普通に訪れるものです。事実は小説より奇なり。海外に限らず、国内でも県内でも市内でもラボ内でも良いから、自分を解放できる「旅先」に飛び出しましょう!

中川

1 comment:

  1. わたしの場合は海外に行くことの一番大きなモーティベーションは、当時の自分が目指す研究(ショウジョウバエを使ったクロマチン構造の解析)がそこにあったということでした。日本の研究者人口は世界全体からするとごくわずかですので、言うまでもなく日本よりも海外の方がはるかにバリエーションがあって選択肢が広いです。世界中のどこでもいいから一つだけラボを選ぶとすれば、それが海外のラボであることの方が多いのは自然な気がします。もっとも自由度の高い(研究のことだけを考えていたらよいし、どこのラボでもやっていけるスキルがある)ポスドクの時期には、臆することなく海外のラボを回ればいいのではないかと思います。昔ほどではないにせよ、研究体制の合理性という点では日本は今でも欧米に一歩後れを取っていると思います(つまり研究がやりにくい)。日本にやりたい研究をまさにやっているような幸運なケースもあるでしょうが、やはり希だと思います。

    また、Cell や Nature がバンバン出ているのを横目で見ながら、人とは違う新しいことを見つけ、それを正当に評価してもらうには何が必要かということもよくわかりました。これは説明が難しいですが、わたしにとっては得難い経験となっています。

    実を言えば、単に英語がうまくなりたい、というのも海外留学の理由の一つだったりします。何せ24時間英語漬けですから、いやでもうまくなります。うまくならないと生きていけない。論文を書いて編集者と交渉をするのも海外との共同研究を進めるのも全て英語でやるので、結構馬鹿にならないスキルです。ネイティブスピーカーにはさすがに勝てませんが、随分役に立っています。

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    影山裕二/岡崎統合バイオ

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