シアトルでの学会の雰囲気。行ってみたかったですね。ちなみにポスターは見るにしても、発表するにしても、愛ですよ、愛。学会はいつでも、一つの恋の終わりであり、始まりだと思います。惚れ直すのも良し、目移りするのも良し。書を捨て町へ出よ、ではないですが、自分の仕事への独りよがりな愛を客観的に見ることのできる貴重な機会、が、学会の醍醐味でしょう。また、若いときは、プライベートでも、いろいろあったりなんかしちゃったり、するのだかしないのだか、あったんだかなかったんだか、みたいな、楽しみかたもあるかもしれません。学会には季語みたいなところがあって、初夏はRNA学会なり発生生物学会、冬が分子生物学学会。分生などは横浜か神戸でやることが多いので、妙に勝手知ったる人々がその時期には中華街にあふれかえるわけです。
もうすぐRNA学会ですが、学会ってなんなんなのだろう、と思ったりする人は多いのではないでしょうか。論文を出していれば学会なんて出なくても良い、みたいなかたくなな人もいるでしょうし、学会さえ出ていれば論文なんて出さなくても良い、なんて人も、こちらはありえないでしょうか。ともあれ、影山さんがいみじくも書かれているとおり、学会は、人との出会い、これ以上でも以下でもないと思います。新しい人に出会わなくっても、人と話をして、漠然としていた思いが形になる、ということはとても多いですし(後述)、何よりもまず、客観的にどう思うか、というナマの声が聞けるというのは大きいです。サイエンスと関係のない話で恐縮なのですが、キャッツアイ、、思春期の中学生には丁度良いぐらいの刺激度の漫画がかつてありまして、そのイメージと、最近都内の電車に乗る機会があって、その車窓に貼ってあったレオタード姿が、なかなか一致しなかったのです。知らなくても別に困らないことは必ずWikiで分かるので、またそういうことは面白かったりするのでいろいろ調べてみたのですが、分かったような分からなかったような。こういうときは、知り合いに聞いてみて、初めて納得の行く、答えが得られるのだと思います。特にそれが信用の厚い人であれば。早世の村山八段がかつて詰むと言ったら控え室の検討が終わったそうです。学問に関してはその辺の是非は難しいところなのでしょうが、つまりえらい人でもたまには間違えるでしょうから一概に検討終了、とはいえないのでしょうが、色々な形での「断言」、これは生の声でないと、聞けないのですね。そのあたりが、最近になって分かってきたと言いますか。学会なんて、自分の発表だけ終わったらとっととズラかって、、、なんて思っていたのは事実のような気がしますし、そのあたりは、忸怩たる思いがあります。比べるのもおこがましいですが、ビールみたいなものでしょうか。高校生なぞ、ビール、美味しいよね、やっぱりクラッシクラガーだよね、なんて、飲んだこともないのに嘘八百を見栄で並べたりするわけですが、いや、本当に美味しいのですよ。時が来れば。
中川
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