April 18, 2013

コンピューター将棋と新人類

若い方々の投稿が増えて何よりです。当新学術の生の姿がちょっと透けて見えるのではないでしょうか。

かつて、僕が高校生の頃、「新人類」という言葉が一世を風靡しました。今では死語となってしまいましたが、当時の世相からみた若者基質を切り取ったときにそういうふうに括ると上の世代から見たときに何となく理解できる、そういう言葉だったのでしょう。なんて失礼な、と、当時新人類だと思っていた僕は(実際はちょっと年齢が足らなかったでしょうが)大いに憤慨したものですが、揶揄されていることは分かっている一方、ちょっと違う新感覚をもっていると認めてもらっているようで、ちょっぴり嬉しかったりして、などと思ったものです。

実際のところは、「新人類」が新人類らしからぬ保守ぶりを発揮したのかどうなのかわかりませんが、80年代から90年代、また、ミレニアムが明けて2、3年は、身の回りの生活において革命的な変化は無かったような気がしています。それが、ここ10年は、薩摩と長州がドンパチしていた元治年間なみに日常生活ががらりと変わったのではないでしょうか。なんと言っても大きいのはコンピューターの急速な浸透で、「コンピューター通信」はオタクの領域から解放され、高校生、いや下手をすると小学生までもが普通に使うツールとなりました。論文にしても、いまやオンラインで見るのが普通。冊子体を購読している人なんて、ほとんどいないのではないでしょうか。ポスドクになったときに研究者になった矜持というわけではないですがDevelopmentの冊子体を定期購読し(たしか年間1、2万円で安かった)、郵便受けに入らなくて雨の日は結構悲惨な形状になっていたのが遠い昔の思い出になってしまいました。

オンライン全盛の今でも、新人類旧人類としては、コンピューターの画面で見るのはなかなか違和感があって、ついつい印刷してしまいます。iPadが出たときはこれだ!!と思い、論文のPDFを知る人ぞ知るアプリケーションPapersで管理してエコエコとか喜んでいたのですが、最初の一週間ぐらいは珍しさも手伝って布団にくるまってiPadで論文を寝る前に読むなんていうちょっと格好いい(行儀悪い)生活をしてみたりもしたのですが、すぐに飽きてしまいました。というかなかなか頭に入らない。ページを繰るとか、アンダーラインを引くとか、そういう作業をしながら物事を理解していくというスタイルが染み付いている「新人類」にはiPadはちょっと高度すぎるおもちゃでした。人類の至宝、羽生三冠も、棋譜を管理するのはコンピューターが便利だけれども、手の意味を深く理解するときは、実際の駒を使いながら駒を並べていったほうがすんなり頭に入るとかいうようなことをどこかで書かれていました。そう。僕らの世代のヒーローの羽生さんがそういうのだから、やっぱり紙でなきゃ、と、「新人類」は思う訳です。

ところがところが、そうでない人も、きっとたくさんいるのだと思います。今の学生さんあたりですとそれこそiPad、iPhoneあたりで情報収集している人も多いのでは。無敵の羽生さんも一つ下の世代の渡辺竜王には苦戦しています。渡辺竜王はコンピューターを使って研究する事になんら違和感を感じていないようですし、囲碁の若きヒーロ井山六冠も、師匠とはネットを通じて対局していたとかいう話です。

いわゆる新人類は「新感覚」をそれほど持っていなかったと思うのですが、今は、本当の意味での「新感覚」が世にあふれているような気がします。次世代シークエンサーはその象徴ですが、こういうサイヤ人並みの超絶技術が出てくると、いやいや生物学の本質というのはやはり感覚的なところで理解するものなのだよ、右脳で理解しようよ、やっぱりアナログが一番、関節痛にはグルコサミン、などとおよそ科学者とは思えない言葉を連発してお茶を濁してしたくなってしまいます。でも、実際のところ、認めなくはないけれども認めなくてはいけないところまで世の中は動いているという側面もあるのかもしれません。

ちょっと以前に取り上げた将棋の電王戦。ここ一ヶ月、土曜日は仕事も家族サービスも全く手がつかないのですが、最初に夢のような圧勝の一局があった後は、いまのところ人類がコンピューターにやりたいようにやられているという状況です。プロ棋士ならばなんとかしてくれる、と思っていましたが、コンピューターの思考は、かなりのレベルにまで達しているのは間違いないようです。一将棋ファンとしてはなんか寂しい気分になってしまうのですが、これはこれで現実として受け止めなくてはいけないのかなあ、と思い始めています。

これまで、計算はともかく、複雑な問題に対しては人間の判断の方がコンピューターの判断よりも優れている、というのが常識だったような気がします。しかしながら、コンピューターの方が正しい判断をしてくれる状況というのも、間違いなく存在するのだと思います。天気予報などは、往年の熟練の天気予報士よりは、スーパーコンピューターを使った雨雲の動きの予測の方が、より正確な判断をしているのかもしれません。なんだかこういう書きかたをするとやけのやんぱちになっているように思われるかもしれませんが、個人的には、新しい技術があれば新しい側面が見えてくるのは間違いないので、むしろこれからどんな世界が開けてくるか、ワクワクしているところもあります。自分で使いこなす事が出来るかどうかは未知数、というか、多分ムリですが、論文の内容をどれだけ理解しているかとか、実験のデータの意味をどれだけ正確に理解しているかとか、そういう事に関してはかかってこいコンピューター、みたいに思っているのですね。なにせ「新人類」ですから。

中川

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