影山さんが論文書きの話題を提供されていましたので、常々思っていたことを少し。
研究者が自分の活動を対外的に発表する手段は学会発表であったり特許であったり、一昔であればモノローグの本を出版したりと色々あるわけですが、現在の一般的な理系の研究者の場合、論文を発表することが最も重要なサイエンティフィックな活動であるというのは論を待たないところでしょう。昨今では広く社会に向けて情報を発信することも重視されるようにはなりましたが、少なくとも研究者同士がお互いを評価する場合、ほぼ論文のみが唯一無二の評価基準と言って良いと思います。学会発表で正面から罵倒されることは滅多にありませんが、論文のピアレビューは匿名制度であることも手伝いまあそれは容赦ありません。何もそこまで意地悪にならなくてもと、相手が特定できたら藁人形に釘を打ったろうかと思うこともありますが、それも裏返してみれば研究者が論文をそれだけ重要視しているということに他なりません。
ところがこの論文を書くという作業、なかなか敷居が高いわけです。特に言葉の壁も手伝って、一生書かずに済むのであればそうしたい、という若い研究者の人、特に学生さんなどはそう思っている人も多いのではないでしょうか。少なくとも僕自身は大学院生の時、論文を「出したい」とは思っていましたが、論文を仕上げるために死にものぐるいで実験してデーターを出して図を作ってという作業には何の苦痛も感じませんでしたが、論文を自分が「書く」ものと思ったことは、ただの一度もありませんでした。学生は実験をするもの。指導教官が論文を書くもの。そういった「常識」を自分の頭の中で勝手に作り上げて、それをまた何の疑問もなく受け入れていたわけです。
もし研究者としてメシを長く食っていこうとするのであれば、いつかは論文を書けるようにならなければならないわけですが、一体いつになったら論文を「書ける」ようになるのでしょう?ポスドクになって最初に出くわす悩みは、この論文に関する不安なのではないかと思います。中には例外的な人がいて院生時代から鼻息荒くガンガン論文を書きまくっている人もいるのでしょうが、普通はとりあえずそこに関しては思考を停止して、目の前の実験に没頭する人の方が圧倒的に多いのではないかと思います。そこで世の中には論文の書き方なり、英語の書き方なりを懇切丁寧に説明した指南書が数多く出回っているわけですが、なかなかそういう本を読んでいても、論文を「書ける」ようにはならないような気がします。では一体何がきっかけで、どのようにして論文を「書ける」ようになるのでしょうか。
僕自身、論文書きを語るほど多くの論文を書いてきてはいませんし、上手な書き方が出来るわけでもありませんが、ただ一つ自分の中ではっきりしているのは、論文というのものは「書ける」ようになるもの、ではなくて、「書きたく」なるものだということです。とにかく書きたい、書きたい、という強い気持ちが強く出てきて初めて論文になる。「書きたい」と思わないうちは、その仕事は自分の中で本当に真剣にやりたい仕事ではない、と言うこともできるかもしれません。自分が思いついた研究テーマに取り組み、そこで思ったような結果が出てくれば、論文を「書きたい!」と、強烈に思うのが研究者としての性でしょう。心の叫びですね。今、もし学生さんやポスドクになりたてで自分で論文が書けるかなあ、と不安に思っている人がもしいるのでしたら、全く不安に思うことはないと思います。言葉を覚えたての乳幼児の向上心たるやすごいもので、あれは話したくて話したくてしょうがないからとにかく真似をして思いを伝えようとするわけです。「たかいたかいしてー」が「かたいかたいしてー」でも意味は通じるわけです。論文もどうしても書きたいと思ったら、同じような内容を表現しているセンテンスをいろんな論文からコピーペーストしてつなぎ合わせてゆけば、少なくともこちらの情熱が伝わる論文にはなるでしょう。
論文が「書けない」ことに対する治療薬はいっぱいあります。しかしながら、論文を「書きたくならない」事に対する処方箋はありません。恋をしたことが無い人に恋を教えるようなものですから。
中川
随分と遅いコメントですが。
ReplyDelete書きたいことがないと書けない、というのはまさにそうですね。研究者というのは物書きでもあるので、表現したいことがないと困ってしまいます。和文の総説で、自分のやっていることとかけ離れているものを書いてくれと頼まれたことがありましたが、学生に読ませると、「適当にでっち上げた学生のレポートみたい」。結構色々と調べて書いたつもりだったんですけれど、心の叫びがないことが伝わったのでしょう...
影山裕二@岡崎統合バイオ